改めて、「日本会議は全体主義」  文科系

 全体主義広辞苑で引くと、こうある。
『個人に対する全体(国家、民族)の絶対的優位の主張のもとに諸集団を一元的に組み替え、諸個人を全体の目標に総動員する思想、体制』
  この文章においては、冒頭の(国民)諸個人を国家の中にどう位置づけるかの近代的理解が当然の前提として存在する。基本的人権を持つとされたありのままの国民諸個人が国の主人公であり、そういう諸個人が、国家の実態でもあり基本法でもある憲法を作るのだと。

 次に、「日本会議がめざすもの」の国家観は、その呼びかけ、論議の出発点からして、既に国民を選別して見せる。
 まず、文章冒頭が、こういう日本史認識で始まる。
『皇室を敬愛する国民の心は、千古の昔から変わることはありません』
 次いで、この歴史認識を国と国民の未来に向けても「(第一の)あるべきもの」と強調する。
『皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています』  
  どうだろう、ここにある『同胞感』を有しない国民は、『社会の安定』にも、『国の力』にも関わりの薄い、疎外された人々と書いてある。あたかもイスラム原理主義国家が「イスラムにあらざれば、国民に非ず」と瓜二つの趣だ。選び除けられた国民には、自称「国家(の価値)」が強制されるのは目に見えている。日本会議とってこれだけ神聖なものに対しては、不敬罪さえ作るかも知れない。

 こうして、『めざすもの』の国家理念は全体主義そのものである。この『同胞感』を「新憲法」の最重要基盤に据えることによって、『国民』を選別しているのだから。あまつさえこの文書は、切り捨てた国民にこんな冤罪の罵詈雑言を浴びせる。
『戦後のわが国では、こうした美しい伝統を軽視する風潮が長くつづいたため、特に若い世代になればなるほど、その価値が認識されなくなっています』
『自国の防衛を他国に委ねる独立心の喪失、権利と義務のアンバランス、家族制度の軽視や行きすぎた国家と宗教との分離解釈、などなど』
『特に行きすぎた権利偏重の教育、わが国の歴史を悪しざまに断罪する自虐的な歴史教育ジェンダーフリー教育の横行は、次代をになう子供達のみずみずしい感性をマヒさせ、国への誇りや責任感を奪っています』

 このような理念を中心に据えた国家観とは、アーリア人ゲルマン民族の優位を説いたヒトラー全体主義と一体どこが変わるというのか。異質国民の統制や、他民族蔑視・制圧やをどれだけ自制するかという程度の差しか残っていないことに気づきもしないこの無意識こそ、今後に向かって実は最も恐ろしいものだ。ここに描かれてあるご本尊への神聖感情が国家を握ったその程度に応じて、他者への不寛容、排斥がもたらされぬ訳などないのである。
『125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝というべきでしょう』