悪徳政治家と世論  文科系

22日エントリー「安倍晋三氏は、政治教養がない」の最後を、こうまとめて終えた。

『  嘘八百答弁の国会無視。三権掌握の画策。「私が国家」と「私の国家」。「君は国民ではありません」。氏は国民主権に無知なお方なのだ。国民主権からこそ「私の国家」つまり独裁を排する国家体制、三権分立も生まれたのであるから、これら総てが国民主権を知らない証拠になろう。知っていてこんな国家無視連発ならもっと重罪になると言っておく。いずれにせよ、政治家としては恥ずかしすぎることだから辞めなさい。』

 このエントリー文章全体について、僕の友人からこんなメールがあった。
『様々な問題、これを追求しても、与党の絶対多数ですべてかわされてしまう。背景には小選挙区制があり、日本の右傾化がある。指摘されたどの問題も、本来なら政権を揺り動かす致命的なミス、犯罪である。しかし、日本の政権はびくともしない。国会での追求も多数政党と右翼化したマスコミ、学者、若者に揉み消されてしまう。ますますこの傾向は高まることが危惧される。』

 このメールの通りが、日本の現実。むしろ、批判をする方が負けているというのが残念ながら今である(負けていると言っても、今はまだ有権者の4分の1程度という自民党に過ぎないのだが)。朝日新聞が忌避されるなども含めて、政権批判の新聞などの活字文化そのものが衰退して、ネット記事の右傾化は目を覆いたくなるようなものに。政界そのものの社会支配力もそうだ。目に見えぬようにしつつ、各界に与党・政府からの締め付けが凄いと分かる。与党支持のようになっている最大労組連合は、この愛知の先の選挙でもなぜか野党候補を下ろしてしまい、この度与党予算案に賛成した政党を推しているのである。そして目を海外に向ければ、世界中でもナショナリズムがそれぞれの国の形を取って復活している。

 まー、世界史には常にこういう時代もあったと言うしか仕方ない。世界中で庶民が結婚もできぬほど特に貧しくなったので、総需要不足からどこもかしこも競争、競争で、屍も累々。勝った方はその生活維持のためにも与党に回るから、支配体制全体がアベノミクスのような「羊頭狗肉」を掲げる現状を賛美しつつ、腐敗していく時代というものもある。安倍氏の上にまとめた所業はその腐敗競争の頂点、典型例なのだろう。冒頭の『 』の文章はすべて真実だから、毒を喰らえば皿までで、そのうちに、安倍氏、台湾・尖閣、「防衛的な敵基地先制攻撃論」などを巡って、こんな時代さえ起こりうるのか? 為政者が先頭に立って作る「使命」、「世論」こそ実はとても怖いのである。ちなみに、アメリカのアフガン戦争、イラク戦争の前夜などは、下の表現通りの国になっていた。

 岩波近現代史シリーズ10巻本の第6巻「アジア・太平洋戦争」。この巻の著者は吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授である。
 【 東条首相は、各地で国民に熱烈に歓迎された。42年7月27日、大阪の中央公会堂で開催された「大東亜戦争完遂国民総力結集大講演会」の折には、講演を終えて退場する東条首相を熱狂した群衆がとりかこんだ。28日付の『朝日新開』は、その場の状況を、「熱狂した数千の聴衆は帽子、扇子を打ち振り打ち振り、〃万歳々々″と歓声をあげ、(中略)あつといふ間に東条さんを取り囲む。「しつかりやります、やりますとも」「米英撃滅だ、東条閣下お願ひします」「東条首相万歳」と群がる市民は熱狂して全く感激のるつぼだ」と報じている。これが誇張でないことは、同日の首相秘書官の記録に、「公会堂発」、「総理自動車会衆の圧倒的歓迎に取り囲まれ約十分、会衆の中を徐行す」とあることからもわかる(伊藤隆ほか編『東条内閣総理大臣機密秘録』東京大学出版社1990年)。
 さらに、東条に関するすぐれた評伝をまとめた作家の保阪正康も、この頃の東条について、「東京・四谷のある地区では、東条が毎朝、馬に乗って散歩するのが知れわたり、その姿を一目見ようと路地の間で待つ人がいた。東条の乗馬姿を見ると、その日は僥倖に恵まれるという〈神話〉が生まれた」と書いている。東条は、一般の国民にとって、「救国の英雄」だった(保阪『東条英機天皇の時代(下)』) 】