随筆紹介 無一物   文科系

  無一物    S・Yさんの作品です

 禅語に「本来無一物」という言葉がある。禅では、人間は本来完全である、そうだ。
 宗教は一般的に、神は完全であり人間は不完全である。無力な人間が、努力をしてパワーアップしていく、足し算の思想だ。 
 それに対して禅は、よけいなものをしょいこんでいるから、しんどいのだという。身にまとっているものを剥ぎ取って、着ぶくれた余分なものを脱いでいく。丸裸の自分に立ち返れば新たな力が現れてくるという、引き算の思想だ。

 だからという訳ではないのだが、人生で何度目かの「断捨離」を始めた。自身の年齢を考えたら「終活」かも知れないが、この言い方はあまり好きではない。
 衣類は時々整理をしているので、今回は書物や書類から手をつけた。が、予想していた通り、全くはかどらない。旅行や趣味のパンフや資料、講演会のテキスト、何十年も書き溜めてあった雑文の数々。読み返せば当時に時間が戻ってしまう。師と仰ぐ方々は大半が亡くなられたが、懐かしさやその時々の思いにふけってしまうのだ。確実に歳月が流れ去っていったのが思い知らされて切ない。  
 娘からの手紙も出てきた。彼女が結婚した時のものだ。
「子どもは親を選べないというけど、私のお母さんになってくれて、ほんとにありがとう 我儘な私と親子になって、育ててくれたこと、感謝しています。私もお母さんのように家庭を築いていくねーー」。生後直ぐに母を亡くして親類宅に預けられていたこの子を、二歳の誕生日に引き取ったことが思い出される。
 手紙は十年近くも前、娘が家を出ていくときに手渡してくれたものだ。この時も感激しただろうにすっかり忘れていて、不覚にも涙した。近ごろ、涙もろくもなっている。

 これでいいのだろうかと迷いつつ、今まで手探りで私なりに生きてきた。余生がどのくらいあるかはわからないが、時々、何もかもをかなぐり捨てて自分を空っぽにしてみたいと思う。
 ものに執着し、周りの顔色を伺う生活は、だんだんに面倒くさくなってきた。
 あれをしたい、これも欲しいと思えるのは若かったせいもあるのだろうか。
「本来無一物」とは、一切のものから自由自在になった心境をいうらしい。なんと潔く、清々しいことだろう。歳をとるとは、まさに引き算だと思える。