随筆 年を取るということ   文科系

年を取ると、今まで続けてきた「活動」でもこれを前進させようとすると、どんどん気力が要るようになる。そして、前進が見えにくくなると、その気力が出にくくなって来る。前進と気力とが相関関係にあり、これには悪循環と好循環とがあるとは、歳を積むごとに痛く感じるところ。そして、この両循環の間の行き来が潮の満ち引きのように誰にも常にあるようだが、悪循環の方が次第に増えていくものだ。この悪循環の増加というのが、つまるところ「本当に」年を取っていくということなのだろう。だからおそらく、やりたいことがなくなったというのが、自然に(何かの死病と言うことではなく)まもなく死んでいくということなのだ。

 身体も使わなければどんどん廃用ということになるが、何か本当にやりたいことを持ってそこで良循環を遂げている人というのは、僕の知る限り身体を巡る良循環をも大事にしているものだ。やりたいことでの良循環を維持するには、身体を巡る良循環が不可欠だとどこかの時点で知ることになるからだろう。もちろん、そう知ったのが遅かったという方も多いとは思うが、僕の周りにはそういう人はあんがい少ない。ま、ギターや楽器にせよ、文芸同人誌活動、ランニングなどの仲間にせよ、そんな良循環を生む価値がある活動だということなのだ。

 物を書く「活動」もまた当然、同じ事が言えると考えて来たが、悪循環が少ない、あるいは、これに気付きにくい活動だとこのごろ分かって来た。スポーツや和音楽器のような「瞬時反応」が要らない活動だからだ。作品のモチーフ、着想や、言葉を思い起こす力はどんどん小さくなっても時間をかければかなりカバーできるし、このカバーを日々重ねていれば思い起こす力自身も一定保つことも出来るもの。年寄りにはそういう時間だけはあるのだから。
 そんなことを言い聞かせながら同人誌の毎月冊子作品を書き、年一度の長編と格闘してきた。後者については、ちょっと今までにないピンチだとも、恐れつつのことだ。今年もはたして、書けるのか。